川淵三郎氏が明かすW杯初出場の舞台裏 「屋上から飛び降りるのはこういうときなのかな…」

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27日放送、フジテレビ「S-PARK」では、日本サッカー協会元会長の川淵三郎氏にインタビュー。日本が初めてワールドカップ(W杯)出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」の舞台裏に迫った。

川淵氏が平成で最も印象に残った試合に挙げたのが、平成9年11月16日に行われたイランとのフランスW杯アジア第3代表決定戦。岡野雅行のゴールデンゴールで日本がW杯への切符を初めて手に入れた一戦だ。

「ドーハの悲劇」から4年とあり、国民の期待は大きかった。さらに、2002年の日韓大会開催が決まっていただけに、本大会出場経験がなかった日本としては、「未出場でのW杯開催」をなんとしても避けたいところだった。当時の日本サッカー関係者は、想像を絶する重圧を感じていたのだ。

Jリーグのチェアマンであり、協会副会長でもあった川淵氏も、代表強化の責任者として「何かあれば世間の非難・誹謗中傷すべてが僕のところに一方的にくる」状況にあった。

だが、日本は最終予選で半分を消化してわずか1勝と苦戦。1位はおろか、第3代表決定戦に回る2位の座も危うくなってしまう。W杯出場に暗雲が立ち込める中、川淵氏は世間やマスコミから容赦ない批判を浴びせられる。Jリーグの観客動員も苦しみ、辞任を求める声も上がった。

川淵氏は「こんなに日本代表が困っているときに、そういうことを国内で言うのかよ」という思いだったという。「広い部屋にいたときに『屋上から飛び降りたりするのはこういうときなのかな』とふと思った」というから、その苦悩は計り知れない。

そして、カザフスタンとの第4戦で引き分けた直後、川淵氏は日本サッカー史上初めての決断を下すことになる。予選途中での監督交代だ。技術委員長から「今のままではW杯へ突破できません」と要請され、ヘッドコーチだった岡田武史の昇格を求められた。

当時の岡田氏はトップチームを率いた経験もなかった41歳の若い指導者。だが、「岡田しかいません。対戦相手のことも知っているし、選手のことも知っている。彼以外ない」と説得された川淵氏は、腹をくくって岡田氏を部屋に呼ぶ。

監督就任の打診に「せめて1度部屋に帰って考えさせてくれ」と答えた岡田氏だが、「考えたら『やっぱりやめます』と言うに決まっている」と考えた川淵氏は、「ダメだ。ここで決めろ」と一蹴した。断られてもおかしくない状況だった認めたうえで、川淵氏は「僕の顔つきも相当厳しかったんだと思う。そういう事態なんだから。だから、岡田も本当にしぶしぶ(了承した)」と述べた。

川淵氏が懸念していたのは、岡田氏がコーチ時代、加茂周前監督から「上に立たないで選手の中に入り、仲間意識を持ってチームの連携を図ってほしい」と言われていたことだ。監督になれば「仲間意識」とは言っていられない。

だが、岡田氏は初日の練習のミーティングで、自分が話している間に言葉を発した川口能活を「黙れ!」と一喝したという。川淵氏は「それで一瞬にして監督になっちゃった」と明かした。

そして迎えた「ジョホールバルの歓喜」。胆のう摘出手術を受け、自宅でテレビ観戦を余儀なくされた川淵氏は、岡野のゴールが決まった瞬間に妻、娘の家族3人で抱き合いながら泣いたという。

川淵氏は「3人で抱き合って泣いたのは最初で最後。あんなうれしかったことはない。あれほど大きな爆発と感情のあふれる思いというのはなかった」と振り返った。

最後に、サッカーにとって平成という時代は何だったのかを問われると、川淵氏は「日本サッカーの歴史を語るうえで、平成なくして日本サッカーの発展・成長はあり得なかった。すべてが凝縮された(時代だった)」と答えた。

(引用元:livedoor news)

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